第93話    「釣りは現場に聞くが一番」   平成18年01月15日  

「事件は現場で起きている!」とは、どっかで聞いた言葉がある。数々の場数を踏んでくるとなんと云っても現場に聞くが、一番と云う事が分かって来る。最近の釣りは、情報の氾濫で知ろうと思えば本を見ることでも良いし、ネットで検索しても探せば知る事が可能だ。自分が知りたいと思えばどんな釣りでも意図も簡単に知ることが出来る時代である。我々の若かりし頃と違い、すこぶる便利な世の中になった物だ。しかし、情報の氾濫が逆にネックとなってしまっている感がある事も、又事実である。余りにも色々な情報があり過ぎて「自分にあった釣りは、どれだろう?」と思い悩むこと、無きにしも非ずと云う事が云えるのではないだろうか?

同じ魚を釣るにしても色々な釣り方があるし、本当に自分にあった釣り方を探すのも、これ又中々困難な時代になって来た。自分たちの時代は釣れている場所でじっくりと観察出来もした。釣れている人の釣り方をじっくりと観察し、見よう見真似で何度も何度も釣をして覚えた技が多い。そしてその後色々な魚釣りに挑戦して、沢山釣って見て、少しずつ身体で釣りなる物を覚えて行った事を覚えている。身体で覚えた釣であるから、決して理論尽くめの釣ではない。その後色々な本を見て、こんな釣り方やあんな釣り方もあるのかと云う事を覚えた。だからと云って本を読み過ぎての理論尽くめの頭でっかちな釣はしていない。良いところは取り入れた自分流の極めて地元にあった自然な釣り方をしていると考えている。

釣で初めから良い師匠に巡り合う事は、中々難しい事である。ある程度釣りと云う物がどんな物かを実際に体験し、その後に色々な情報を仕入れて取捨選択するのが一番良いと思う。初めから情報過多の頭でっかちな釣から始めるのでは、体験がないので実践には、中々応用出来るものではない。こと釣に関しては理論と実践では中々一致することが、少ない趣味のひとつである。

大抵の人は師匠につかず本を見ただけの自己流の釣をしている。しかし、自分では釣れなくとも上手な釣り人の脇に座ってじっくりと観察することによって上手になることも出来る。何事も最後まで自分流にやっている人は、偏屈な自己流に終わってしまう傾向がある。中には天才も居て、例え自己流であっても剣術で云えば一派をなす者も居るかも知れぬが、基本的にはこれはと云う師匠を見つけて師事するのが上達の早道だと考えている。

肝心なことは、実践なくして幾ら頭で分かろうとしても分かる物ではないと云う事である。頭で分かったつもりで居ても、さて現場に出て見ると全く用をなさない事が幾らでもある。だから「現場に聞け!」「習うより、馴れろ!」と云う事でもある。本を二冊、三冊見るよりも一回現場に出て釣って見る事の方が、良く釣を理解出来る。本を見るなら現場を数多く経験してから、見た方が良く分かるし余程自分の為にもなると云うものだ。とにかく釣れても釣れなくとも一生懸命に現場に足を運ぶことで、自分が釣りたいと思っている対象魚の釣り方をしっかりと覚えること。そして色々な魚を沢山釣る事で、自然に釣るコツを覚えて来る。釣と云うものは、その時その時の現場にあった釣りをしなくては、釣れるものではない。それは基本と実践はまったくと云って良いほどに目まぐるしく変化しているからである。基本をどうしたら現場でこなせば魚が釣れるかと云う事が分かってくれば、あなたはすでに名人に近い域に達している。当地ではただ闇雲に数だけ釣れば良い釣り人を商売人、釣りの上手の上に品格も備えている釣り人を敬意を込めて玄人と呼ぶ慣わしがあった。最近ではその玄人と呼べる釣師は、残念ながら少ない。

常連の釣り上手な人を探してあえて隣に座り、釣り方のコツを盗むべし。本を読むより観察し、その技を実践して見る方がよっぽど上手の早道となる。早く釣りの上手になりたければ、同じレベルの人と和気藹々と何時までも楽しんでいては(それが悪いとは云わないが)、決して腕は上る事はない。釣りの技を盗むに、金は要らない。自分の物になるまで、技を復習すべし。例え相手が年下の者であっても分からぬ事があったら徹底的に教えを乞おう。古の三顧の礼ではないが、素直に頭を下げて分かるまで聞く事も肝要である。決して「分かった振りをするな!」「丁寧に聞けば、必ず教えてくれる。」